空白雑記

暇つぶし

おちんぽ騎士団平等伝説 わが征くは広大なる大海

続編です

 

前編 

kuuhaku2.hatenablog.com

 

 


自分の家で同棲するというのは、それが終わったとき、近所のスーパー、パン屋、飲食店、家の前の道路、そういったものすべてがトラウマ毒ゾーンになるということだ、というのがわかった。なので、同棲するなら相当な覚悟がいる。トラウマを克服するまでは家から出ることすら辛いし、家の中もそれまでいつも一緒にいたものが消え去る。これは本当に辛い。


伴侶に先立たれた人が、後を追うように亡くなるという話について、俺は単に高齢だからじゃね?と思っていたが、この喪失感を数十年単位で食らうと、死期が早まるくらいはあり得るなと思った。


前2つのブログを書いたあと、同棲という、今までしたことがなかったことを解消したことのダメージがこのように遅れてやってきて(あるいは、急いでブログを書いたのは、文章にして吐き出すことでダメージコントロールをしようと緊急排水したのかもしれない)、それに苦しみ、友人にドロドロとした愚痴を投げつけたら、皆俺の話をきちんと聞いてくれた上で、俺にもわかるようにそれぞれの言葉で説明してくれ、俺もわかることができ、救われた。俺は本当に、友人には恵まれた。おかげで出歩けるようになったし、そのうち治るだろう。

 

詳細までは情報的に書けないが、俺の気持ちと同棲相手の気持ちのバランスは全く取れておらず、俺は間違えていたという話だった。懇切丁寧に説明してくれたおかげで、俺にもそれがわかった。結局のところ、あの子はおちんぽ騎士団無しには生きられないんだろう。それが全てで、俺はそれを拒んだから、そうすると生きていけないので、別れるしかなかった。俺もおちんぽ騎士団付きの彼女は耐えられないので、別れるしかなかった。この結果は必然だった。

 

俺は、おちんぽ騎士団がつくような女が好きだが、付き合って真剣になれば、きちんとおちんぽ騎士団を切ってくれるという勘違いをしていた。おちんぽ騎士団がついても振り払わず、取り込まれてる時点で、それはもうおちんぽ騎士団なしには生きられない女なんだ。そう簡単には変われない。そもそも、おちんぽ騎士団付きが耐えられないのに、おちんぽ騎士団がいるような女が好きになる俺が間違っている。おちんぽ騎士団付きを受け入れるか、おちんぽ騎士団がいないような女を好きにならないといけないんだ。


それを踏まえて前2つのブログを読むと、俺の身の回りのことについては、ドロドロとした気持ちに包まれ、見えないことも多いまま書いてたなあと思うが、それもまた俺、消したりはしないし否定もしない。このとき俺はこう思っていたのだ。


さて、しかし、おちんぽ騎士団の話については面白いと思っているし、おちんぽ騎士団史観はそう的外れでもないんじゃないかと思う。なので、この一連の話のシメとして、俺が思うことを詳しく綴ろうと思う。


おちんぽ騎士団は人権とともに誕生した、弱いオスの成れの果てだと書いたが、ここでおちんぽ騎士団は「平等」という属性を強く持った。平等という概念も、おおむね人権とともに誕生した概念であろうが、その概念を強く持ったのは、平等ではなかった弱者側なのは当然だ。


おちんぽ騎士団とは、人権という新しい概念の中の、特に平等という概念に根ざして生まれた。メスを正規手段で獲得できないオスは淘汰されていたが、あなたは淘汰されるべき存在ではない、あなたもオスとして幸せになって良い。そう言われて、彼らなりにオスとしての本分を全うしようとした結果が、おちんぽ騎士団だ。


平等という概念はとても難しい。ともすれば、完全な共産主義こそが平等だともいえる。資本主義社会や格差競争は平等でないと言える。特に蟻や蜂のようなものは、自我を持たず群れのために尽くすこともでき、完全な共産主義ともいえるが、人間は強い自我を持つので、平等を全うすることは難しい。そもそも定義からして難しい。


おちんぽ騎士団は、力技ではメスを獲得できず、その代替行為として女性に完全に都合のいい存在に徹することで、女性の共感という蜜を吸う存在だ。本来の自然競争的な平等でいうならば、ライオンの群において、平等に力比べをした上でボスライオンがメスを得る。負けたオスは引き下がらざるを得ない。そういうものだ。だが人間は、そういった動物的な概念から、人権・平等という概念を得たときに、引き下がらなくても良い、しかし力技では負けた、どうしよう。ということでおちんぽ騎士団が生まれた。


おちんぽ騎士団とは、平等を求めて戦う騎士団なのだ。だからおちんぽ騎士団同士は、少なくとも本当に争う手前までは、姫へのヨチヨチをみんなで平等にこなす。姫もわかっているのか、騎士団全員に平等に接する。誰かが姫を独占したり、騎士同士に上下が存在するのは、平等ではないし、おちんぽ騎士団ではないのだ。

 

少子化が、おちんぽ騎士団のマッチング妨害によって進んでいるというのは理解しやすかろうが、ポリコレLGBT/フェミニストを併記したことについて説明する。


ポリコレでもLGBTでもなくポリコレLGBTとしたのは、LGBTそのものではなく、LGBTはこう扱われなくては平等ではない、というような物言いに俺が思う振る舞いのことだ。これは、平等の定義によって是とも非ともなるだろう。LGBTに対するポリコレな態度は、どこが正常なのかの境界線を争っているように見える。必ずどの作品にもLGBTを登場させなければならない、などという基準になった日には、おちんぽ騎士団の血を引くものに俺には見える。


フェミニストの掲げるものは男女同権で、この題目に関して俺は俺の定義によっては全く賛成する。男性は女性を殴ってもいいが、女性は男性を殴ったら犯罪になるとか、そういう形で権利が同列でない場合については、これを是正すべきであろうと思う。


フェミニスト、という人たちにもいろいろいるので、こうした俺も賛同する思想のもとに、女性の権利が侵害されないように守ろうとする人もいるのだろうが、なかには、ツイフェミなどと呼ばれる、女性に媚びるために主張を二転三転や暴走させるようなフェミニストも散見される。たとえば、この女性キャラの性的な描写は非であり、焚書すべきというような主張だ。


平等の定義を拡大解釈すると、このように他の権利や自由(この場合表現の自由)まで侵害するため、平等の定義は難しい。フェミニスト全体がおちんぽ騎士団だとは言わないが、このような暴走型フェミニストが、おちんぽ騎士団の血を引くものに俺には見える。


暴走型LGBTポリコレマンも、暴走型フェミニストも、結局立ち位置としては、それぞれの擁する存在に、耳障りの良い、しかし責任や結果までは深く考えていないことを囁き、それに寄生して自身が気持ちよくなりたい存在だからだ。おちんぽ騎士団の亜種だ。蜜を吸う存在だ。おちんぽ騎士は滅ばなければならない。


おちんぽ騎士団やその亜種はすべて、インターネットで、無責任さと伝搬性を獲得してから増殖したように思う。そして、これら無責任な、自身が気持ちよくなりたいだけのおちんぽ騎士団に、人類は滅ぼされようとしている。急激にではなくても、徐々に、確実に。

 

ネットがなくても、おちんぽ騎士団的平等思想から生まれた社会主義運動は、核戦争を巻き起こし人類を滅ぼしていた可能性すらあった。いま人類が直面しているおちんぽ騎士病は、それがインターネットを得て、より凶悪化したものなのだから、今度こそ人類は滅んでしまうかもしれない。

 

人類以外の種には存在しない、弱いオスのルサンチマン集合体たるおちんぽ騎士団との戦いこそが、人権思想を持った瞬間から始まり、今も続いている人類の存亡をかけた最終戦争であり、インターネットで進化したネオおちんぽ騎士団により、人類は今劣勢に立たされようとしている。

 

おちんぽ騎士団にはきっと、こんな囁きが聞こえるはずだ。”この「種」を食い殺せ”と


おちんぽ騎士は滅ばなければならない。