空白雑記

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幸福論

幸せについて本気出して考えてみた。

 

というのも、俺は現状年収は額面で2000万くらいあり、貯金も十分にあり、仕事には全く不満なく、好きなだけゲームや漫画を楽しめて、多分世間一般でいうとめちゃくちゃ幸せな状況にある。

 

でも、飽きた。暇だ。辛いような気がする。幸せってなんだろう。俺は幸せなのか?暇を苦しく思う今の俺が?

 

というわけで本気出して考えてみた。

幸福について―人生論―(新潮文庫)

幸福について―人生論―(新潮文庫)

 

まず土台にしたのがショウペンハウエル。幸福とは、十分な知性を生まれ持った選ばれし者が、哲学のような高尚な知的労働に没頭することこそが、真の幸福である。労苦、または退屈という苦痛は常に一定量ある。貧困ならば労働をしないと食べていけないので労苦の苦痛が大きく、裕福になれば退屈という苦痛に襲われる。その退屈という苦痛には、哲学という無限の知的労働でもって立ち向かえば、最高に幸せである。

 

 アカギはこうみえて幸福論みたいなところがある。アカギという漫画は、実質アカギとワシズの対決なんだが、そのワシズがアカギと対決することになった理由とは、退屈。頂点に上り詰めたワシズは、退屈から吸血麻雀をはじめる。そして、アカギという自分と同じレベルの存在に初めて心から敗北し、アカギにリベンジをするという生きがいを獲得する。この話の主人公はアカギじゃなくてワシズだったんじゃないかと思う。アカギは何も変わらず、ただ自分の生きたいように生きる、それが生きづらいと自覚してなお自分の魂からくる声に従う。物語の主人公というのは、進歩、成長、変化せねばならない。その点アカギは何も変わらない、ずっとアカギだ。ワシズは退屈で人殺しをしてたようなクズの金持ちだったが、アカギに再会したいという目標を得た。自分のこれまでの人生よりも、未来のアカギとの対決にこそ夢を持った。ワシズは成長したし、変化してる。ワシズが主人公だ。

エンダーのゲーム〔新訳版〕(上)

エンダーのゲーム〔新訳版〕(上)

 
エンダーのゲーム〔新訳版〕(下)

エンダーのゲーム〔新訳版〕(下)

 

 あと、エンダーのゲームも読み直した。エンダーは幸福だったのか?

[まとめ買い] ブッダ

[まとめ買い] ブッダ

 

きてくれたああーー!!幸福といえばこの人!悟りといえばゴータマ!ブッダだあああああああ!!!

ブッダがいうのは、人は求めるから苦しむ、求めることを捨てれば悟りに至ると。

ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来

 

 ホモデウスでは、幸福とは瞬間的なものだから、幸福になろうとするなら、「ブッダ・サトリ」に至って常に平穏な状態になるか、シャブ漬けになって常に幸福な状態を保つしかないという。幸福の質の上下は定義できないとする。

 

幸福の質の定義といえば、ベンサムの功利主義における最大多数の最大幸福論では生存のための基準とされ、ベンサムの弟子筋にあたるミルの質的功利主義はその道に精通したものが計る質こそが幸福の度合いであると定義しようとした。

 

ミルの質的功利主義はもっとも実感に近いが、しかし「その道に精通した」を定義することができない。結局抽象的になってしまう。

 

幸福とは、結局客観的には定義できないものなのだ。ホストに狂い、風俗で身を焦がして貢ぎ倒す馬鹿な女も、その瞬間は強烈に幸せかもしれないし、そのホストに捨てられる前に心筋梗塞とかで急死したら、その生涯は幸せだったのかもしれないから。それこそ、おちんぽ騎士団の人だって、それによって覚せい剤をも超える脳内快楽物質が出てるかもしれないわけだし。

 

快楽物質の量だけで測るのも違うように思う。俺は高い寿司を食い慣れてしまい、トップレベルにうまい鮨を食っても、ああ、うん、今日もなかなかうまいねくらいで、脳内快楽物質とかはあんまり出ないけど、だからといって、スーパーのパック寿司でうまいと快楽物質を出してるのより劣るとは思わない。

 

 

いろいろ考えて、結局、幸福とその親戚を混同しがちなんだという結論に達した。また、幸福も定義できた。

 

幸福ー不幸

幸福とは、未来に期待できることだ。やりたいことがあったり、目標があったり、夢があることだ。それを得た瞬間こそが幸せだと皆勘違いしているが、幸せとは求めるものがあり、そのために走ることができる状態そのものを指す。それを得れば永遠に続く幸福が得られるものなどない。求めていることこそが幸福なのだ。

 

つまり不幸とは、諦めて現状を受け入れている状態だ。年収300万が不幸なのではない。自分には年収300万しか得られないと諦めて受け入れることが不幸なのだ。夢を見ないことが不幸なのだ。

 

ならば俺は幸福だろう。いろいろとまだまだ夢はある。見てろよ。

 

親戚として次の2つがある。

 

快適ー不快

これは、日々の生活の状態を指す。裕福と貧困に置き換えてもだいたいそのまま通る。俺は相当快適だ。俺より快適なやつはそうそう居ない。

 

退屈ー苦痛

これは、常に合計値が一定であるとショウペンハウエルが定義したものだ。俺ほど快適で、それになれてくると、ラスボスとしか言いようがないレベルの退屈に襲われる。俺が幸福なのか不安になるのはこの最強の退屈と戦ってるせいだ。この最強の退屈を倒すには、やりたいことに打ち込むしかない。俺は今それが満足にできてないから、退屈との戦いに苦戦してるんだ。

 

幸福の定義という哲学に向かっていたとき、俺は確かに退屈を忘れられた。それは幸福だったのかもしれない。幸福が定義できた以上、幸福になりたいならそうなれるよう行動していけばいい。

 

俺が高級寿司を食ってまあまあだなと思うのと、スーパーのパック寿司でうめえと快楽物質を溢れ出すやつと。俺は、まあまあだとしか思えなくても、高級寿司を食いたい。高級寿司が食えなくなる代わりにスーパーのパック寿司でも最高に気持ちよくなれる改造手術があったとしても、受けない。

 

高級寿司がまあまあだと思えるからこそ、まだ見ぬ究極の一に出会うその日を期待している。プラトンのイデア寿司。

 

こうして定義できると少し落ち着いた。頑張って生きよう。