空白雑記

暇つぶし

幸福論2

おそらく、持って生まれた能力が低いほうが、楽しいことも少ないが、辛いことも少ない。

 

人生は結局、だいたい釣り合うようになってる。


幸福にも慣れるし、不幸にも慣れるし、幸福だからこそ不幸が際立つし、不幸だからこそ幸福が際立つ。だから、一生を通してみれば、だいたい同じくらいになっている。

 

幸福すぎるということはないし、不幸すぎるということもない。どちらも慣れてしまう。

 

無人島でサバイバル生活をしていて、日本に帰ってこれたならコンビニの飯でもうますぎて感涙するだろう。そしてそのありがたみは一週間もすればなくなり、元通りだ。

 

逆に、今コンビニの飯でも滅多に食えない贅沢で、うまいうまいと言ってるやつが、毎日高いうまい飯を食うようになり、その後コンビニ飯を食ったら、昔のことなんて忘れて不味いと言うだろう。

 

幸福80に慣れつつ不幸-20を感じる人と、

不幸-50に慣れつつ幸福10を感じる人はどちらが地獄か

 

不幸20と不幸50で不幸50のほうがつらいかっていうと、慣れてるかどうかで、住めば都。不幸値だけでは比べられない

 

実際は、幸福80と不幸-20(落差100)の辛さと幸福10と不幸-50(落差60)だと前者が大きい。

 

自分は幸福(80)なんだろうなと思っていて、-20の不幸で絶望するほうが、自分は不幸(-50)だと思っていて、10の幸福で喜べる人よりも辛い。そういうもんだからしょうがない。

 

幸せになればなるほど、不幸な何もない人にとっては取るに足らないことで絶望するようになる。これこそが「私には私の地獄がある」論だ

 

わかりやすい例で言えば、美しいということは、それを失うという絶望がついてくる。

 

100の美しさを持った美人が50の美しさに落ちることと、40の美しさを持ったブスが20の美しさに落ちること、どちらが辛いだろうか?落ちてなお、美人のほうがブスの全盛期よりも美しい。しかし美人の絶望(落差)はブスの2倍以上だ。

 

このときの辛さは、おそらく落差の二乗となる。ブスの辛さは20*20=400だが、美人の辛さは50*50で2500だ。

 

釈迦ブッダの「求めるから苦しむ、欲をすべて捨てて悟りを開きなさい」というのは、幸福を全部0ということにすれば、不幸の落差がMAX50くらいに抑えられるから辛くないよというライフハックだ。悟りは幸せになるテクではなく、辛くなくなるテクだ。救いはある、落差に苦しむよりはマシかもしれない。

 

アカギのいう、積み上げすぎると縛られる、というのは、今幸福80の人間が90を求めても、その差10*10で100の幸せしかないのに、たとえば0に落ちるときの落差は90*90-80*80=1700も増える、という話だ。釈迦ブッダよりはマイルドな、しかし言ってることは同じだ。

 

でも俺は悟りは嫌だ、落差を乗りこなして究極を知りたい。究極を求めるというのは、究極の絶望も味わうということだ。わかってるさ。でも究極が知りたい。