空白雑記

暇つぶし

反ヴィーガン論としての人間価値論

前提として、ヴィーガニズムを、アニマルライツ(動物にも権利を認め人と同じ最低限の配慮をすべきである)というものだとする。

 

アニマルライツは存在しない。自然権で保護されるべきは自我を持つものであって、またその自我の価値は将来も含め考えるべきである。仮に3歳児程度の知性を発揮しているとしても、それ以上に成長しない動物と、将来相対性理論を生み出すかもしれない人間の幼児を、現在価値で比較すべきではない。

 

これは特別損害という考え方で、将来価値が向上するとわかっているものを毀損した場合、その将来価値を賠償すべしというものだ。生まれたての赤ちゃんを、その瞬間の知性によって評価し、犬畜生以下だとするのは、白痴の暴論としか言いようがない。

 

動物の反応は反射であって自我はない。それは電卓程度のものだ。動物が電卓だとすると、人間の赤ちゃんはソフトをまだ何もインストールしてないiPad Proだ。これをソフトをインストールしてないという理由で、iPad Proよりも電卓の方が価値があるというようなもんだ。

 

自我を持つ人間は将来価値の可能性が無限である。しかし、牛は、牛乳や食肉以上の価値は決して生み出せない。だから牛乳や食肉として活用される。

 

牛が日本語を話し、ドナドナされてる間に、「なぜ同じ哺乳類なのに我々は肉として焼かれ、我々の乳は人に飲まれるのか」って詩を諳んじることが出来たら、俺は即座に牛の自然権に賛同するよ

 

だからズン類は間違ってるんだよ。ウスであるミノアは自我を持っている。将来その頭脳で、美味しい肉以上の価値を生み出すかもしれないだろ。というか俺にとってのミノアの価値は少なくともA5肉以上だよ。だからウスを食うのは間違ってる。ミノアは俺にください。

 

自我があるというのは、自分の頭で考えられるというのは、何かを生み出すかもしれない無限の可能性があるってことだよ。だからその価値に自然権が発生するんだ。この理屈だと自我が無い人間には自然権は無いんだけど、そういう猿にも死ぬまでに自我が発生するかもしれないよ。知的障害者も将来治って天才的頭脳を発揮したりするかもしれないだろ。お前は”アルジャーノンに花束を”も読んだことがないのか?

 

だから、アニマルライツは存在しない。そして人間にのみ、その将来価値から、一定の自然権は認めたほうが良い。自然権は自然に発生する物ではない。そう認めて発生するものだ。たとえ人間に対してであっても。

 

人間の将来価値から人間の自然権を定義するこれを、人間価値論とする。

 

宇宙人が、人間の黒焼きはAGAの治療薬になるからと人間を乱獲しにきたとき、そこに自然権があると思うのか?

 藤子・F・不二雄SF短編も読んでないやつなんておるん?