空白雑記

暇つぶし

ネオルサンチマン

まずルサンチマンの定義から

 

ルサンチマンとは、「弱者道徳に縛られた人間」である。弱者道徳とは、「強者道徳を否定し、強者を悪と否定することで、弱者の自分を慰撫する道徳」である。

 

とても面白く、わかりやすい例えがあったので引用すると

 モヒカン「ヒャッハー!この世は力が正義だ!」←強者道徳
奴隷A「体を鍛えていつかモヒカン倒すぞ」←超人
奴隷B「はい…モヒカン様が正しいです…弱者は悪です…」←畜群
奴隷C「くそっ、なんて時代だ!クズどもが偉そうにしやがって」←ルサンチマン
奴隷D「そもそも世の中間違ってる。虐げられてる俺たちのほうが本当は正しいんだ」

 

引用元ではモヒカンとなっているが、強者として適切なのはラオウだろう。

 

ラオウに統制されていた畜群は、ケンシロウがラオウを倒したあとどうなっただろうか?野垂れ死んだ可能性が高いのではないだろうか?ケンシロウはただ秩序を悪として破壊して回っただけだった。超人のケンシロウはそれでいい。しかし、超人になれない畜群は、ラオウに統制されていたほうが、自立して生きるよりも幸福かもしれない。

 

「強者に統制されているよりも、荒野を好きに歩いていいんだよ(ただし、超人じゃないと荒野で野垂れ死ぬ可能性がくっそ高いけどな)」

 

これが畜群に与えられた自由だ。さらに、自己が弱者だと否定し、受け入れ、畜群として生きることは惨めなことだと、インターネットは告げる。

 

だから、ルサンチマンになるしかない。そして「個人的に妄想で強者を否定し自己を慰撫していたルサンチマン」は、インターネットによって「集団で強者を否定し自分たちを慰撫しあう、ネオルサンチマン」へと進化した。

 

ネオルサンチマンとはおちんぽ騎士団であり、引きこもりであり、ニートであり、強者道徳における弱者だ。インターネットによってお互いに通じ合い、群れ、弱者道徳を共有したそれらだ。

 

「人は強者道徳を生まれ持つものであり、自分より強者が居たならば、自己を研鑽し強者たらんとすべきである。」だからこそ、ルサンチマンに飲まれるなという理屈だったわけだが、これは生来の強者のみの理論で、元来、弱者というものは、強者を否定することしかできないものだったのかもしれない。だって、強者たれと言われても、強者にどうやってもなれない弱者もいるんだから。

 

「性善説」と「性悪説」のような、「性強説」と「性弱説」があるのではないか。そして俺は「善と悪」も、「強者と弱者」も、生まれつき、または環境によってきまるもので、「性善悪無し説」であり「性強弱無し説」であり、「人間は多様性」説論者である。

 

ルサンチマンは、まだルサンチマンを脱却するチャンスがあった。「強者理論」を押し付けられるが故に、強者理論に従って、奮戦し、素養があれば強者側へと近づけただろうから。

 

ネオルサンチマンは、インターネットは、ぬるま湯コミュニティのメンバーは、自由に弱者のままでいていいと囁いてくる。誰も責任をとってくれないのに、俺たちは正しい、強者のやつらは、いや、俺たちを認めないやつらはカスだと独自の弱者理論を振りかざす。救われない、気づいたときには詰んでいる。違う。詰んだとき、やっと気づくのだ。それが、人生詰んだと嘆く腐女子だ。

 

そう、「レールの上を走らない人生」というのは聞こえがいいんだが、その実態は「レールから外れても立ち上がろうとせず、そこに寝転がったまま前に進まず、詰む人生」なのだ。このレールの上を走れ、レールにそってちゃんと前に進めと、ムチ打ってくれないと、ほとんどの人間は前に進めないのだ。荒れ地を自分の足で走れる「超人」以外にとっては。

 

○○なんてしなくていいのは、超人だけだ。超人以外は○○で平均的な能力を身に着けたほうがよい。○○には、学校とか、就職とか、結婚とか、子育てとか、好きなものを入れればいい。学校に通い、就職し、結婚し、子育てをするのは当たり前というレールは、今や間違った押し付けの、古臭い理論と言われている。しかし大多数にとっては、そのほうが幸せだったのではないか。

 

どうすれば、インターネットという第二の知恵の実により、レールさえも消失し、荒野に放り出された人類をネオルサンチマンから救えるだろうか。