空白雑記

暇つぶし

努力と才能

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これは「俺は大学受験に失敗したけど、別に大学受験がその後の成否を分けるわけではなかった。俺は大学受験以後では成功したし、大学受験で成功した奴らはその後で失敗したりしていた。」という話だ。

 

この人は自分のことを「底辺だった自分でもそれなりに暮らせてる」というが、上位国立大にポンポン入れるレベルの進学校(偏差値70くらいかな?)に一旦入れてる時点で全然底辺ではない。それは「進学校の底辺」でしかないし、それって「同年代全体の上位5%くらいの底辺」なんだよね。だから当然逆転できるポテンシャルはある。当たり前。

 

あと裏テーマとして「俺は負の感情で成功した。負の感情が切れて今は物足りない。誰か俺に負の感情をくれ」という話があるかな。「彼らと同じように話していたかった」は嘘で、自分が底辺だと嫉妬して、それで追い抜いた。今は、あいつ絶対見返してやる!と魂を燃やし目指すべき目標がなくなって寂しがってる。本当に同じような関係を続けたかったなら大学を頑張るべきだったし、頑張れなかったときに脱落したと自覚しないと。

 

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これは上のを見て、「はあ、すごいですね、頑張れる上級の方は素晴らしいですね、底辺ってこうですよ」という話だ。とても真実味があると思う。この人が赤裸々に語っていることからすると、この人が望み通り宝くじをあててもろくなことにならないと思う。瞬間は楽しめると思うし、楽しいうちに急死したら何も辛いことはないね。

 

ちなみに、「やる気のある有能者だけの世界」は、人間をクローン培養とかするなりして、一定の性能で安定して生み出せるようになった時くらいしか無理で、現状「やる気のある有能さ」はあんまり遺伝しないように見受けられる。もしはっきり遺伝していくなら、これほど優劣がつきやすい「社会」を構築した人類は、とっくに有能マンだけになっていて、この人のような人間は生まれもしてないだろう。

 

自然に生殖する分には、「やる気のある有能マンは突然変異の異常個体として少数生まれるだけ」だから人類はずっとこんな感じなんだと思う。

 

自然界の動物にしたって、マンボウとか極端な例を出さなくても、ざっくり言ってだいたいの生物において、「適当に10匹生むと、そのうち能力や運が良かった2,3匹が生涯を全うする」という感じの設計になってる。自然生殖というランダム制を伴った個体増殖方法を採用すると、だいたいこうなるみたいだ。

 

人間がいじりまくった植物を見ると、種だらけで食えたものではなかったスイカは、今や小さい種と美味しい果肉でたくさん栽培されている。「スイカ 原種」でググれば出てくる。これが「有能な人間だらけの社会」で、種だらけのスイカはそもそも今やほとんど生まれていない。

 

 

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これは本文内にもあるように、上記2種を読んだ上での話だ。

匿名筆者さんの学力は凡庸だったのかもしれない。

 匿名筆者さんは少なくとも進学校に入学はしているので、凡庸と切り捨てるような学力では全く無かったと思う。

匿名筆者さんは、他の才能はともかく「コツコツと努力を積み重ねる才能」には秀でていたのだろう、と思う。特別な才能も何もないようにみえて、学歴に勝る人々を追い抜いて着々と出世する人に、私はそのような才能をみずにいられない。

 これがそもそも間違っているのだ。表題にもあるように、努力と才能というのは、かなり厳密な概念であると俺は思う。

 

特別な才能とはなにか?イチローはバットを持った瞬間にホームランの打ち方がわかり、ほとんど練習をしていないのにあれだけの成果を上げたのか?イチローについて調べると、子供の頃から練習時間が異常だったとある。

 

羽生名人は将棋のルールを聞いた瞬間に新しい定石でも生み出したのだろうか?けして違うはずだ。将棋に人生を捧げ、ライバルと切磋琢磨し、血反吐を飲み込んで歯を食いしばって戦い続けた将棋少年の行き着いた先が、羽生名人であるはずだ。

 

「特別な才能」とは、能力を持って生まれた人間が、その能力をなにかにつぎ込み、人生をかけて練り上げた能力だ。その超人の、人生における努力の結晶こそが、「特別な才能」と呼ぶものだ。

 

そう、「才能」とは「努力をする能力」と「身体・知能などの生まれ持った能力」の両方を、人生をかけてなにかに注ぎ込んだ時に生まれる結晶なのだ。

 

葛飾北斎は生まれつき絵の才能があったわけではない。だが、指先の器用さであるとか、ものを見る眼の良さであるとか、それを絵に落とし込むために考える知能であるとか。そういった物が優れていたのだろう。そして、人生を絵に捧げたのだ。葛飾北斎はあと5年くれといって亡くなったという。手塚治虫も漫画を描かせてくれと病床で言っていたという。彼らの執念を、生まれつき特別な才能があったなどと語るのは、なにもわかってない凡愚による、それと気づかず称賛のつもりでしている最大級の侮辱だろう。

 

努力と才能についてと、生存競争について語ればあとはもう、努力することができない弱者は生存競争に敗れているだけであるから、ある程度救う福祉くらいしかないし、そこで彼らの自尊心まで救う必要はないと俺は考える。

 

その運動会で良い成績をおさめた順に豪華な昼ごはんが貰える世界で、足の一番遅い子に最低限死なないだけの昼ごはんをあげる、というのは社会として必要だろう。これをしないと、足の速い人間だけが生き残る社会になってしまう。

 

 俺は、運動会で1位にならないとかわいそうだからと、全員で肩を組んで同時ゴールしても、足が遅い子は何も救われていないし、自尊心も満たされないと思う。自尊心は自分で勝ち取らなければ得られないと思うからだ。そして、最初の匿名の彼がそうであったように、足が遅くて負けたという屈辱は、時にその子の才能を開花させることがある。

 

弱者から福祉の顔をして屈辱のチャンスを奪うな。