空白雑記

暇つぶし

IT革命と幸福論

https://anond.hatelabo.jp/20190511225025

 

KKO(きもくてかねのないおっさん)予備軍の話だなと思いながら読んだ。

 

IT革命によって、それ以前の国家レベルでも知ることのできなかった情報量に、個人が触れられるようになった。なってしまった。

 

ブラック企業だとか、自分は底辺だとか気づかなかったら、幸せだったかもしれない人達が、自分が不幸だと気づけてしまう。

 

この世にはブラック企業とホワイト企業があって、お前がしんどいと思ってるのは理不尽な苦しみで、名だたるホワイト企業に入れたらお前も幸せだったのに、ブラック企業に入ってかわいそうだねえって「ブラック企業にしか入れない能力の人間」に教えることは正しいのか?

 

ホワイト企業の席は限られる。恋愛にしたって、趣味にしたって、幸福や満足といった概念のほとんどには個人差がある。「全体を俯瞰して自分の立ち位置を把握した上で幸福になる」ことはほんとうに難しい。上には上がいる。人の欲求に限りはない。

 

IT革命という、「脆弱な自我では耐えられない情報量革命」が起こった現代こそ、哲学の力が必要なんじゃないか?

 

これに対して、ブッダサトリは「欲を捨てる」という答えを出した。しかしそれは、ブッダが生きたような、「科学」が無く、「生きること」が大変で、五体満足に普通に生きることが欲望足り得た時代の考えだ。

 

欲をすべて否定するブッダの悟りを、ではブッダ以後の仏教家は実践しているだろうか?いやできてるようには見えない。そりゃあ信長も比叡山を焼き払いたくなるってものだ。

 

ブッダの先輩はアダムとイブだ。知恵の実を食べる前は、動物のように知恵もなく、楽園に住むことができた。人は、いちいち悟りを開かなくても、生まれてから死ぬまで、知恵がなければ幸せだったのだ。人間ではないが、きちんと世話をする飼い主に飼われた飼い犬は、主観的にはとても幸福そうに思える。知恵の実を食う前の人は、こう在れたのだ。

 

人類は発展し、様々な形で知恵を開発していった。それは「幸福」から遠ざかる行為だった。知れば知るほど欲は尽きない。全てを得ることなど誰にもできない。自分と、飼い主と、その周りの世界しか知らない犬では居られないのだ。

 

自分が暮らすコミュニティは「村」といい、その上には「国」があり、国が集まる「世界」がある。世界は「地球」という天体にあって、それは回っているし動いている。そんな地球も「宇宙」全体からみればチリ一粒にも値しない。

 

ブッダはまあせいぜいが、周りの国すべてくらいまでの概念を克服すれば良かっただろう。俺は可能ならば、全知全能になって宇宙全部を掌握したい。そこまでいかなくとも、可能なら宇宙旅行がしたい。俺はブッダの何倍の概念を克服すればいいんだ?

 

 

IT革命が起きなかった場合、冒頭の増田は、自分がブラック企業で働いてる事も、学習障害等の概念も知らず、ただ自分はあまり評価されないという身の回りの現実だけを受け入れて生きていたかもしれない。IT革命で、それらを知ってしまった上での今と、どちらが幸福なのか?

 

そう、ショーペンハウエルが「自分の幸福論(意志と表象としての世界)はブッダの言ってることと根っこは同じだ」というような事を言っているが、あれは前近代IT革命以前の、新しい幸福論だった。IT革命以後の幸福論が、今こそ必要なのだろう。

 

ここまで書いて思ったけど、所詮哲学は「一定以上の知能を持つ人の嗜み」なので、衆生は救われないなと思った。そうすると、衆生の一人一人にまで行き渡ったIT革命は、人類史上最も革新的な発明で、全人類を地獄に叩き落とした悪魔の発明だな。人はITという悪魔と契約したのかもしれない。