ツイッターでダルビッシュさんがその辺頑張ってて俺は応援してるんですが。
「芸能人や有名人、フォロワーの多い人が引用RTで反論するのは卑怯」という人が居ます。
でも何も卑怯じゃないんです。当たり前のこと。誰にだって反論する権利がある。
「有名人が引用して反論するのはファンネル(ファンの追撃)を生むから卑怯」
これも何も卑怯じゃないんですよ。
モテるのが暴力って言ってるの、スマブラ負けた時に「あいつは家庭用ゲーム機を買ってもらえてるから資本暴力」とか「もともと手先が器用でコントローラーが扱えるから才能暴力」とか「兄弟間で切磋琢磨できたから環境暴力」とか言うタイプって感じがなんとなくして、友達は少なさそう。
— なないちご@やどりば (@716comm) 2020年2月15日
これええ話やなーと思って引用しますが。
基本的に平等なんてのは、究極的に言えばこの世界にはありません。生まれた瞬間から能力は個体毎で違うし、環境も違うし。でもまあ「機会の平等」とかはあるといいよねっていうことで「平等」っていう概念が生まれただけに過ぎない。
たとえば裁判。弁護士は金さえ払えば3人も4人もつけることができる。これは平等ではないが、文句を言っても誰も助けてはくれない。勝ちたいなら、手持ちの戦力で相手を倒すしかない。
有名人に喧嘩を売って有名人が反論すると、有名人のまわりの人間がファンネルになって襲ってくるかも知れない。それは当たり前のこと。喧嘩を売るというのは、「その相手の戦力に宣戦布告」するということだろう。
俺は宇宙戦艦ヤマト(第一作TV版)を見たときに、ああ、なんて戦争に向かない民族なんだ日本人はと思った。ヤマトのなかで、敵国であるガミラスは、正々堂々と正面から戦場を指定し、堂々と戦い、負けるとヤマトを讃えながら散っていく。なんて都合がいい敵を用意したんだろう。
ヤマトの前に起こった実際の第二次大戦はどうだったか。大量の物量、ゼロ戦鹵獲を代表とする研究分析、開発された新型兵器の数々、ロシアの参戦。ボコボコにされた。それを乗り越えるのではなく、「こうだったらよかったのにね」というアニメを作って慰撫していたのかと悲しくなった。俺がヤマトをあんまり好きになれないのはそういうところだ。
この世界は願い通りにはいかない。与えられたカードで、選んだフィールドで戦うしかない。有名人も反論してくる。時には自分がいきなり注目されることもある。その覚悟がないなら大人しく喧嘩を売らずに黙っていればいい。その覚悟があるなら、有名人が相手でも、やらねばならないときには喧嘩をすればいい。別に有名人も無敵ではない。戦力差があっても勝てるかもしれない。それこそが平等だ。