なぜ平等という概念が牙をむいたのか。
「本当に平等が必要な、しかし平等という概念の棍棒を与えてはならない人たちにまで平等という概念が行き渡ったから」
多分こういうことなんだと思う。
「本当に平等という概念で救われるべき、平等がないと転がり落ちていく、底辺の性能をもった個体」に、「平等という棍棒」を与えたらどうなるか?除夜の鐘が聞けなくなった。
このコメント欄は、とても模範例だと思うので引用する。
ちゃんと元記事の本文を読んでから、コメント欄を見てほしい。どうだろうか?
「これでさえ、はてブという機能を理解し、なんとなく(理解できてなくても、だ)読もうとし、そしてそれっぽい日本語(一応使えてる)でコメントを投稿できる時点で、底辺ではない」ということを実感できているだろうか。
インテリぶった凡人は、すぐに人権の大切さとやらにすっ転ぶ。
人類はまだ猿だ。そこそこの知能を持った動物だ。一部の異常個体として生まれた突然変異種が異常であり、発明や革新を行ってきた。俺の肌感覚では、この異常個体は5%くらいしかいない。
この異常個体は別の種ではない。人類という猿のなかで常に5%程度の異常個体が突然変異的に、偶発的に誕生するという話なので、劣る種の猿をどうこうしろという話ではない。全ての猿は5%の異常個体を生む可能性を秘めた尊い猿だ。
ただ、5%しか異常個体の人類と呼べるものは生まれないという前提で、冒頭のはてブの、日本語を読めないクソみたいな奴らが殆どだという前提で、社会制度や技術の運用方法を考えるべきだと思う。たとえばインターネットとか。この前提が抜けて、自分たち異常個体が「普通」なんだと勘違いした設計が問題を生んでいるように思う。
インターネットを誰かが管理しろという話ではない。それだと、管理する奴が猿になったら終わる。そうではなく、インターネットが管理されるルールを考えるべきだ。平等という棍棒を管理するルールを考えるべきだ。
除夜の鐘がうるさいと猿が騒いだら除夜の鐘を全員が聞けなくなる状態はおかしい。適切な、苦情の通し方というルールを作るべきだ。猿がその棍棒を振れなくするべきだ。俺は大晦日の深夜に除夜の鐘が聞きたい。俺はそのために、「除夜の鐘を聞かせろ」といちいちクレームを入れたくないんだ。