空白雑記

暇つぶし

ポリコレ棒とルサンチマン2.0、弾劾主義について

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ジェームズ・ガン監督が、過去の問題ツイートを掘り起こして騒ぎ立てられ、ディズニーから首にされた。

 

これをポリコレ棒の仕業だと片付けるのは容易いが、俺はルサンチマン2.0だと思う。ポリコレ棒を振るっているのは、LGBTでもなければ、ポリコレ主義者でもない。憑依したルサンチマン2.0がポリコレ棒を振らせている。

 

ルサンチマン2.0とは、本来は何の行動力もないルサンチマンが、ネットによって集合体としての存在を確立し、成長・進化したことで現れた魔王だ。こいつは進化し、今や人類文化最大の敵となろうとしている。‪大衆というのは扇動されやすいものだったが、扇動者がある程度はコントロールしていた。確たる扇動者もなく、宗教等にあるような教義もなく、ただルサンチマンの負の攻撃性が実態を伴い始め、標的を探し始めたのが今ネットに生まれつつあるルサンチマン2.0で、これがジェームズガンを殴り倒した存在だと思う。‬

 

ディズニーがジェームズ・ガンの首を切ったのは、経営的な、つまりは儲かるか儲からないかという判断ではあるのだが、ディズニーにそう判断せしめたのはルサンチマン2.0の仕業だ。ルサンチマン2.0は、自分たちを扇動する方法や、集団として攻撃する方法を日々学び、進化している。その結果、現実に最大最強レベルの影響を及ぼし始めた。ディズニーで実績をあげている監督の首を切り飛ばすほどに。

 

資本主義の次に来たのは、ポリコレ棒を振るうルサンチマン2.0による、弾劾主義だったのだ。

 

資本主義は最大数の声を経済的に無視できない。ルサンチマン2.0は数として最大であるし、数の暴力を自覚しはじめた。だからルサンチマン2.0に資本主義は屈するのだ。

 

第一形態は、2chのような場所に匿名でルサンチマンが集まり、絡み合い、ルサンチマン2.0が産声を上げた。ネットの深海でうごめいている彼らにはすぐには実害はなかった。

第二形態として、ルサンチマン2.0は現実世界に上陸した。ささやかながらも無視のできない影響力を持って上陸したルサンチマン2.0は、鬼女板や花王不買運動などといった現実への運動により進化し、第三形態となった。しかし大した成果も挙げられず、現実の重力に苦しみネット海に帰っていった。

 

だが、ポリコレ棒という進化の秘法を手にして、第四形態として、ルサンチマン2.0は再上陸を果たした。ルサンチマン2.0に意思があるのかはわからない。もはや荒ぶる神だ。ルサンチマン2.0の進行方向にあったというだけで、ジェームズ・ガン監督のような実績を持つ人物でさえ業火に燃やされる。

 

誰かが冷却液をぶち込めればいいのだが、ぶち込めなかった場合、弾劾主義に襲われないようにする無難な行動こそが至上命題となり、人類の文化は衰退するだろう。

ガセグルメとグルメ論

ガセグルメとは、誇大に美味さを喧伝することだ。

その本質は嘘松(おそ松さんそっくりな美男子同士がじゃれ合うのを見たとか、イケメンに告白されたとか、嘘またはかなりの誇張があるとしか思えないネタ投稿のこと)と同じであるが、グルメに依ることで嘘松よりは批判し辛いものになっている。

twitter.com

ガセグルメとは情報だ。グルメではなくて情報に依ったものであるから”ガセ”なのだ。

 

ガセグルメといえば、昔渋谷で働いていたとき、渋谷にあるハンバーグ屋がある日を境に超行列店になったことがあった。なんでも、マツコ・デラックスがテレビ番組で絶賛し、また、金賞をとったという。

 

一度だけ食べたことはあり、大して美味くもないと思っていたのに毎日行列ができるようになったので、もう一度食べてみたらやっぱり大して美味くなかった。疑問に思って調べたところ、その金賞というのは「1000円で満足がいくハンバーグ部門」の金賞であり、また、他に某ファミレスもその金賞を受賞していた。

 

しかし、その店に俺がもう一度食べに行った際、おそらくどこか遠くから食べに来たのであろうカップルが、ハンバーグを一口食べるなり、「ほんとにすごくおいしいねー!」「うん!食べに来てよかったね!」と微笑みあったのだ。馬鹿な!と俺は目の前にあるハンバーグをもう一口食べたが、やっぱり大して美味くもないハンバーグだった。

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(ラーメン発見伝より)

ガセグルメもつまりこのようなものだ。ガセグルメを広める側は嘘松的な欲求(RT、いいね稼ぎ)だとしても、ガセグルメを実際に作ったら美味かったと言ってる人達は、つまり情報を食ったのだ。

 

前述のカップルは、たいして美味くもないハンバーグを本当に美味しそうにしていた。多分、本当に美味しかったのだ。美味しいか美味しくないかなんてのは結局主観的なものなのだから、催眠にかかればなんでも美味しい。大好きな彼女と一緒に、話題の店を調べて食べに来るというその体験が既に美味しいのだろう。ガセグルメを作って食べたら美味しかったと言っている人も、大好きな彼女や、愛する息子と一緒に作ったのかもしれない。

 

芹沢は、客のほとんどが味のわからない人間だということに苦悩する。そして、味がわからない馬鹿舌の持ち主については情報を食わせて稼ぎ、本物の舌を持つ客には本物のラーメンを原価度外視で食べさせる事にする。ラーメン発見伝は飲食店経営者の視点なのでこうなるが、客の視点で見れば、本人が満足してうまいと思ってればそれで良いんだ。

 

 

さて、俺は、グルメとは「自分が納得がいくものを食べること」だと思う。

 

グルメとは料理に対する姿勢だ。では、最も単純な料理「卵かけご飯」について考える。

 

「卵かけご飯」という料理名の情報だけで、美味い、好きだ、単純だ、などと評価するのはグルメではない。卵かけご飯の素材となる米、水、卵、醤油、(薬味)と、作り方次第で、千差万別の卵かけご飯が出来上がる。

 

グルメブームの火付け役となった美味しんぼ(初期は超名作漫画である)であればきっとこうだ。まず米を研ぐ前に、米粒を精査して欠けた物などを除く。そして汲みたての清水で上手く研ぎ、竈で炊飯する。炊きたてのご飯に醤油を適量たらして香りを立てたあと、産みたての卵を溶いたものを流し込む。これは源流ともいえるグルメであり、ここまでやることは現実においてはグルメを超えた「美食」だ。ここまでやれば至高の卵かけご飯ができるだろう。

 

逆に、安い古米を炊いてから長時間保温されたものに、スーパーで安売りされている賞味期限切れ間近の卵(冷蔵庫でキンキンに冷えたもの)を割り入れ、醤油を垂らして混ぜれば、最低限の卵かけご飯ができるだろう。

 

俺はこのどちらも自分で作って食べたいとは思わない。俺の食べる卵かけご飯は、コシヒカリの特選米(新潟農家から通販で買ったもの)を浄水器の水と南部鉄器釜を売りにした炊飯器で炊き、炊きたてのご飯にミッドタウンで買ってきた1玉100円くらいのブランド卵と、鮮度の一滴醤油で食べる。これでグルメ界における80点くらいの卵かけご飯になる。材料はすべて常備してあるものなので、揃える手間もない。俺はこれを納得して、うまいと思って食う。それが俺のグルメだ。

万引き家族の整理

万引き家族を見てきた。89点。

いい映画だと思うが、後味が悪すぎる、そして父になるより悪い。考えさせられるというやつの極致。

ただ、そんな国の恥がどうとか監督がどうとか揉める映画ではないな。後味が悪すぎるだけで、いい映画だ。

俺は映画とは娯楽だと思ってるので、娯楽が好きだからこの映画には90点以上は付けられない。

 

おおいにネタバレになるので、まだ見てない人は見てからのほうがいい。

カンヌをとるくらいの映画なのは確かだから。

 

映画館が、今まで一度も見たことのないくらい静まりかえって鑑賞していた。それはもう気持ち悪いくらい静かで、咳払いすら躊躇われるような異常な静寂に包まれていた。それは、この映画を見始めた冒頭から、あまりにも重苦しい、想像し難いほどの辛い現実というやつを突きつけてくるからだ。

 

万引き家族に登場する人間は、ほとんどが闇を抱えている。善人か悪人かはおいといても。

 

というわけで整理と感想。俺は小説とかは読まず映画を一度見ただけ。

主要な登場人物でいうと

万引き一家

・父親

能がなく、日雇いの土木仕事くらいしか仕事がないし、勤労意欲もない。過去に痴情のもつれから、不倫相手の夫を殺して埋めている。(これは裁判も終わって前科がついている。)万引きを子供にやらせ(これは見つかったときの保険だろう)、通りすがりに虐待されている子供を見つけると拾って帰ってしまう(誘拐)のはおそらく母親のためだろう。車上荒らしもやってるし、特筆すべき闇は描かれてなかった。強いて言うならば息子が欲しそうなくらいか。単なる犯罪者といってもいい。最後はアパートでひとり暮らしをしていた。罪を償っていない(車上荒らし等)ので、ただのクズとして終わったように思う。またやるだろう。最後に祥太とも決別した。

 

・母親

過去に父親と不倫をして、その時の夫を殺して埋めている。子供ができない体らしく、父親と一緒に、パチンコ屋の駐車場で死にかけていた男の子(祥太)を拾ったようだ。罪を全て背負って服役する。子供をさらって来た事はこの母親の欲求であろうし、おそらくパチンコ屋で祥太を拾う事も、強く求めたのではないかと思う。しかし、子どもたちに、自分を母親と呼ばせる事ができなかった。ただ、罪を償おうとはしている。

 

・祖母

昔、夫を寝取られ、その寝取った相手と夫との間にできた息子夫婦の家に線香をあげに訪問し、金をせびっていた。また、その家から家出した娘を家族に迎え入れ、その娘が風俗店で働いても止めもしなかった。かなり闇が深く、人生も残りわずかということで、子供をさらってこようが気にしていなかった。万引き家族の団欒を経てぽっくり死。作中一番の勝ち組かもしれない。

 

・長女

作中で最も裕福そうだった家庭の生まれで、妹の名前を源氏名にして風俗店で働いていた。家出しても、捜索とかもされていないようだったから、親とは仲が悪い。風俗店の客(吃音症?)と付き合いだした。救いはないけど、資産(若さ、美しさ)を持っているのでどうとでもなりそうでもあり、万引き(犯罪)もしていない。ただ、未来は暗闇に包まれ、どうなるかわからない。信じていた祖母にも、警察からあなたはただの金目当てで腹いせだったと告げられた。悲惨だ。メンヘラの素質たっぷり。

 

・長男

パチンコ屋で拾われた。万引きしていた駄菓子屋の爺さんが、妹にはやらせるなと言ったこと、その店が潰れたこと(母親から、万引きは店がつぶれないならセーフみたいなことを言われていたが潰れた)、生活に困ったのか車上荒らしまでつきあわされるときに、これは万引きじゃなくて本当に盗みだからやりたくないと拒否し、スーパーで妹に万引きさせるのがどうしても嫌になって衝動的にわざと捕まる。この映画の中で、唯一の純粋な良心。地頭も良いようだし、イケメンでもある。本当の両親を一応探しに行くのだろうと思う。妹の事も心配してそうだが、年齢的に何ができるだろうか。児相に垂れ込むくらい?

 

・次女

美男美女の世間が羨むような夫婦(できちゃった婚)は、結婚後夫>妻のDVからの育児放棄。幼さ故に万引き一家にほいほいさらわれてしまった。半年?の虐待しない家族との暮らしの結果両親への不信は拭えず、むしろラストシーンで目に見える傷が無かったことが不自然なくらい。幼すぎるしどうしようもない。近所の人が気づいて通報するくらいしかないが、それも望みが薄い。この一番救いがない子がラストを締めくくるので、本当に後味の悪い映画だった。

 

あとはその他モブ

・長女一家

誰もが羨みそうな裕福な家庭だが、長女を切り捨ててる歪さを祖母に腹の底で笑われてる。でも、長女を切り捨てたなら、本当に誰もが羨む裕福な家庭として完結してしまう。それを闇とするか、長女を異端とするか。

 

・長女の彼氏

風俗の中でも、見るだけ系の風俗に行く人間として、完全なコミュ障として描かれていた。あまり真面目に接客してなかった長女に常連指名した結果付き合うことに。作中かなりのラッキーボーイ。そのままメンヘラと共依存してくほうが幸せだと思う。

 

・駄菓子屋の親父

作中の小さな良心。まあ、見逃すより、捕まえて説教したほうがとかいう見方もあるだろうが。妹にもやらせるのを見て我慢できず、それまでと反して声をかけた。視聴している者の気持ちをさくっと代弁した人かもしれない。

 

・警察官

若く、溌剌としていて、悪を許さず、弱きを助けようとする。ただ、長女と次女は救えない。長男は救ったかな?親なし子だから養護施設?を用意してあげた。救ったというか、親なし子には養護施設を与えるシステム。

 

整理してある程度スッキリしたが、この映画は社会の暗部を鋭く描き、答えもなく、問いかける形で終わる。

俺は、社会の暗部を描きつつも、理想や夢をのせて描くSFのほうが好きだ。

同じ社会風刺でもスターシップ・トゥルーパーズのほうが好きだ。

田端信太郎「過労死は自己責任」を踏まえての「祟り論」

togetter.com

 

過労死は自己の責任なのかどうかという話で、

田端信太郎「過労死つっても鎖で縛って鞭打ってやらせてるわけじゃないし辞める自由もあったはずなので自己責任も一部ある」

弁護士「自己責任とは何事か!使用者がいなければ過労自死するほど追い込まれることもなかった!ぷんすか」

 

ということだと思う。

 

それを踏まえて、こないだ祟り論という面白い話をしたのでその話をする。

 

祟り論とは、幽霊が祟るという概念が日本特有のものであり、これが日本人の特性であり、殺意を縛る呪いであるという考えだ。

 

同級生と飲みながら雑談をしていたとき、歴史上のランキング上位者(なんの上位者かは考えてみよう)というと、ヨシフ・スターリン、毛沢東、ピサロ、ルメイ、ポルポトなどが挙げられるのだが、日本人はこのランキングで上位に食い込めないでいる。それは何故か。部屋を黄金で埋めろと言ったり、埋めた王を焼き殺したりするような暴虐な振る舞いを、果たして我々はその立場に立ったとき我慢できるか?という話をしていると、それは日本人が幽霊の祟りを信じるからではないか?と一人が言った。

 

曰く、日本人は幽霊が祟るという概念を信じているが、これは日本固有のものである。祟りを恐れるからこそ、虐殺者や独裁者が出ないのではないか、と。なるほど。お岩さんや、最近でいうと貞子や伽椰子のように、「祟り」は抵抗さえできない無敵のものとして認識されている。恨みを持って死んだ者は、幽霊としてその加害者のもとに現れ、抵抗すら許さずに命を奪う。

 

たとえばキリスト教においては悪魔と異教徒は討ち滅ぼすものであり、聖水と鉄槌により対抗できるが、祟りに対しては、陰陽師が倒したという話も聞かない。せいぜいが、鎮魂の儀を執り行い、お願いしてお許しいただく程度の対抗策しかない。絶対的な恐怖が「祟り」だ。

 

「祟り」の概念で縛られることは、独裁者を生まないと同時に、革命者も生まない。よって、革命で元貴族を五体バラバラにして槍に突き刺してパレードしたりしない。虐殺も革命も「祟り」で縛られているのが日本人の特殊性ではないか。たとえば明治維新においても、錦の御旗を担ぎ出さないと革命もできないくらい、日本人は革命が苦手だ。

 

殺すと「祟り」が怖いと思っているし、「祟り」が怖いから相手も殺すまではやらないだろうと信じている。それが世界でも特殊な、日本人の考え方ではないだろうか。そしてこれの突き詰めたところが、日本独特のブラック企業ではないか。首にする(殺す)手段は、まぁ突き詰めればあるんだが、それよりも使い続ける(使い潰す)。革命(労基とか告発)もできず使われ続け、壊れてしまう。

 

”PUBG論”、または”努力と才能と流行論”

PUBGというゲームが流行っている。尋常じゃないくらい流行ってるらしい。

 

PUBGとは、サバイバルTPSゲームだ。100人のプレイヤーが一つの島で生き残りをかけて殺し合い、最後の1人(またはチーム)になれば、ドン勝(優勝みたいなもんだ)する。

 

なぜこのゲームがこんなにも流行るのか。それはPUBGが従来のFPS/TPSゲームと比べて、圧倒的に運ゲーだからだ。

 

従来のゲームは、実力差がはっきりと出る、eSportsに属するゲームだった。俺は、格闘ゲームや、FPS/TPSが、ある一定ライン以上には流行らずに頭打ちする原因は、この実力差がはっきりと出る点にあると思う。アメリカではFPS/TPSが流行るという言説についても、PUBGが従来のゲームをぶっちぎったことで否定された。アメリカでは銃が身近な存在だから、身近なスポーツとしてFPS/TPSが受け入れられていただけだ。アメフト、野球、FPSゲームというふうにね。

 

そう、格闘ゲームやFPS/TPSは、努力や才能(反射神経etc)による実力差がはっきりと出るという点において、野球やサッカーといったスポーツや、将棋や囲碁といった知能ゲームにかなり近い。

 

これらとは逆に、運ゲーに振ったことで大衆の人気を獲得したのがPUBGだ。PUBGの在り方は、昨今のDTCGや、麻雀に近い。トップ運やツモ運一つで、その道に心血を注いできた、プロと呼ばれる人に素人でも勝てるかもしれない。この点で皆が夢を見ることができるから、PUBGは従来のFPSよりも圧倒的に流行ったのだ。

 

PUBG、DTCG、麻雀は運ゲーである、しかしそれは蔑む意味ではなく、その運ゲー要素によって圧倒的多数のプレイヤー人口を得て他に勝ってるのだから、生存競争的にみれば運ゲーだから”強い”。

 

みんな努力とか才能とかに縛られずに勝ちたいのだ。それらから目を背けると、運ゲーこそが平等だと思う人が多いのだ。

 

その道に人生を賭けて心血を注ぎ、何十何百倍もの努力と才能によって高みにいる、たとえばイチローが、運次第でリトルリーグの野球少年に野球で負けるなんてことがあったら、これほど理不尽で不平等なことはないと思うのだが、PUBGや麻雀ではそれに近いことが起こり得る。だから運ゲーだし、みんながハマるんだ。

課金ゲームの面白さ論

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まず先に結論がある。この画像だ。

 

横軸と縦軸の値はゲームによって変わってくるが、課金ゲームというのは、全てこのグラフによって表されると思うし、全てにおいてこの図が成立すると俺は思う。

 

何故だろうか。これはゲームそのものだけでは語ることはできなくて、「ゲーム」と「お金を使うというゲーム」との複合ゲームだからだと思う。お金を使うこともゲームなのだ。

 

 

日本でトップレベルにお金を使ってる人は、お金をバリバリ使うと自分のレベルが上って、もっと稼げるようになるからもっとバリバリ使えと言っている。

 

まぁ間違っちゃいない。ただ、上手く使わないと、お金をきちんと使うというのは難しい。上手く使って成功体験になればその通りなのだが、使った後、納得感がないと、それは失敗体験になってしまう。

 

資本主義社会に生きている以上、お金の使い方には納得感があるかどうかの基準が各自にある。前述の記事は、そのタガをぶっ壊して覚醒しろって話ではあるのだが、なんぼなんでも使えば使うほど良いというものではない。

 

より多く使ったほうが覚醒するというのであれば、記事に出てくるバスキアの絵を、120億じゃなくて、倍の240億を無意味に出して買ったほうが良かったのか?そんなことはない。(オークションという、競りの場でついたにせよ)物には適正価格というものがある。そう、適正価格だ。

 

課金ゲームに関して言うと、課金とは、つまりより豊かなゲーム体験を課金で買うことになる。ならば、そこにも適正価格というものはある。それはどこかというと、最初の画像で赤マルで囲った、一番おもしろい価格帯である。

 

この適正価格と俺が定めるエリアは、無課金の、課金者に遠く及ばないハンデを背負って嬲られるドMエリアより適正な勝負が出来るし、課金者の、自分の強さか札束ビンタの強さかわからなくなるエリアよりも自分のウデマエを自認できる。この、二次曲線が折れ曲がるあたりが、一番面白いのだ。

 

勿論、cisさんのように突き抜けて課金した場合もそれはそれで特殊な面白さが発生するが、それは特例なので、一般的な尺度でいうとこうなる。あるいは、あの人は金銭感覚が違うので、あれがあの人にとっての適正価格なのだ。

 

結局、ゲームを楽しめるかどうかも自分の気の持ちよう次第なので、この二次曲線の適正価格エリア以外だと、課金者への妬みか、無課金者への蔑みが発生するので、無心に楽しめないと思うのだ。

ネタバレ論

ネタバレはどの瞬間から許容されるのか、について。

 

①マンガ(雑誌連載)

一般的には、発売日から話して良いとされる。記憶に残っているのは、るろうに剣心で薫の死体が見つかった時と、ドラゴンボールで悟飯が切れて超サイヤ人2に初めてなったときだ。当時電車の中でも駅のホームでも、マンガを読む世代の学生は夢中になってこのネタについて話し合っていた。

 

逆に、一般的に良くないとされているのは、発売日以前のネタバレだ。昨今は、ジャンプの発売日が月曜であれば、前の週の木曜あたりにはネットにジャンプのスキャンがあがってしまう時代だ。これを見ることまで咎めることは少ないが、このフライングをもとにした、発売日以前のネタバレは原則的に良しとされない。

 

また、これらよりも厳しいネタバレ禁止派閥として、単行本派だから単行本が出るまでネタバレはやめてください派と、まだ読んでない人もいるんですよ!ネタバレというのは人類悪なので未来永劫やめてください派がある。

 

ここで一旦結論は控えて次に移る。

 

②映画

これらよりも難しいのが映画だ。映画のネタバレを上映封切り日の当日にすると、まぁ顰蹙を買うだろう。なぜならば、その日に仕事があったりして、必ずしも見に行けるものではないからだ。映画のネタバレ解禁については、明確に基準を持っている人はあまりいないように思う。上映すぐの頃は控えるべきとか、上映中はやめておこうとか、そういう感覚がふんわりとある程度だと思う。

 

ここで、前述の悟飯や薫の死体について、何故学生が夢中になって話していたのか。それは楽しかったからだ。鮮烈なインパクトを受けたものについて、思ったことを共有し、お互いの考えを述べあうことは、物凄い知的な刺激であり、快感である。作品は独りでだけ楽しむものではない。分かち合うことでその楽しさは膨らむのだ。まさに彼らは目を輝かせて、ネタバレについて語り合っていた。

 

というか、語り合う必要さえなく、見て受け取った考えを発信するだけで十分に意味がある。思ったことをまとめ、文章にし、発信する。チラシの裏に書けという言い回しもあるが、ツイッターで発信することとチラシの裏に書くこと、はてなブログに書くことはどれも意味も効果も違う。

 

ネタバレ禁止期間だから発言しちゃダメだよという縛りで発言できないことは気持ち悪い。その論に依って立てば、未来永劫まだ見ていない人が居るから一切のネタバレは禁止され、それは配慮の強要であり、また表現の自由を剥奪する行為ではないか。

 

勿論、映画の核心にせまるネタバレは、ただの軽いネタバレよりは重い行為である。それは出来る限り避けるべきであって、そこを語らないと触れられないようなテーマでもないと、おいそれと語るべきではない。ただ、映画については、実生活のなかで見に行く時間を作れるかという問題が出てくるので、当日が解禁日とはいかない。というわけで、俺は「上映から10日程度経ったあとは、ネタバレに対してはなかなか文句は言えない」という定義を設けた。これは、見に行こうと努力するならば、ネタバレを回避できる猶予期間だ。

 

③ゲーム

ゲームのネタバレは、実はしていい期間というのは俺にもはっきりと定義できない。おそらく、俺はゲームを愛しているから、ネタバレは極力避けるようになっている。ゲームはインタラクティブな体験なので、ネタバレがとても重要な問題となり得ると思うからだ。

 

だから、ゲームを愛する者たちは、まず探りを入れてからゲームのネタバレを話すようにしていると俺は思う。「俺クロノトリガーすごい好きだったんだよねー」「わかる!俺も大好きだった!」という儀礼を大事にしている。これを経ないと、ラヴォスの話とかには踏み込まない。それは、マンガのネタバレよりも、遥かに慎重にネタバレを扱ってるように思うのだ。

 

先日、友人(俺はこの相手をどのカテゴリに入れていいかまだ消化しきれていないが、相手は俺を友人と呼ぶので)がウィッチャー3を遊んでいて、俺はもうクリア済だったので、ネタバレしないように注意していたのだが、ついにラストにさしかかったという報告を受けて、「ついにラストバトルですか」と述べたところ、「ネタバレしないで!」と言われてしまった。俺はゲーム内で「ついに最後の戦いだな」みたいな会話を主人公達はしていたでしょう?と弁明したのだが、”クリア済の俺が語るラストバトル”は、”こう彼らは語っているが本当はラストじゃないかもしれない”という可能性を消したと言われて、しどろもどろに弁明した。こうもゲームのネタバレというのはセンシティブなものなのだ。

 

だがそんなこととはお構いなしに、特に大作ゲーム、ドラクエだのFFだのとなると、愉快犯がテロ行為として、ラスボスやエンディングに関するネタバレ文をネット上に貼りまくることがある。こういった悲しいテロ行為を経て、人は、どうしてもネタバレを見たくない場合、「ネット断ち」をするようになった。映画ならば見に行くまで、ゲームならクリアするまでネットを絶つのだ。

 

④TV番組

TV番組について、放送された翌日にその話題で盛り上がるというのは、これも当然のように行われている。しかし、これまで出たネタバレ禁止派の基準で考えるならば、HDDに気軽に録画できるようになった結果、週末にまとめて消化する人も増えたのだから、配慮の声が出てもよさそうなものだが、それは聞かない。TVは、放送された翌日から、おおいにネタバレして話して良いものという感覚がある。(ここでは地域による格差は除外する)

 

なぜか。それは、TVは無料だからだ。誰でも見ようと思えば見られたからだ。なのに見なかったやつが悪いのだ。

 

そもそもビデオが出てきたのはTVよりも後発で、TVといえば、TVがおいてある裕福な家庭に集まって皆で見るようなものであり、その後もビデオデッキは高価で一部の富裕層しか持てないものだったことで醸成された、体感共有文化があるからともいえるが。

 

そう、マンガにおいて、単行本派は、単行本が出るまでの間のネタバレが嫌なら、雑誌を買って、読みたいマンガだけ読んで捨てればいい。実際俺は2つ3つしか読みたいマンガがないが、マガジンを買って、残りは物凄い速さで飛ばし読みをしている。だがそういう俺の主張はなかなかとおらない。なぜか。それは、雑誌は有料だからだ。金の問題じゃなく単行本でまとめて読みたい?それは好きにすればいいが、ネタバレされたとピーチク騒ぐな。

 

⑤まとめ

ネタバレに踏み込んで話すことは楽しい。しかし、一定の配慮は必要である。俺は

・雑誌は発売日より解禁とする。東京基準、北海道とか知らん。慣れてるやろ。

・映画は、平日または土日のどちらかに努力すれば見に行けるものとして、封切りから10日程度を禁止期間とする。

・TVは当然語るまでもないが放送日からである。

・ゲームのネタバレは、解禁日などを設けず、慎重に取扱う。

と定義している。

 

ネタバレの深さは、解禁日とはまた別の問題だ。必要以上にネタバレに深く踏み込むと、そこは落とし穴となっていて、語ったそいつの格を落とす事にはなるのだが、解禁日を過ぎていたのならばネタバレ罪に俺は数えない。

 

シンゴジラの攻撃方法について、別の作品から画像を引用してネタバレかましてたクソカスのことを俺は今でも恨んでいるが、シンゴジラをなめていてすぐに見に行かなかった俺が悪いのだからネタバレについては罪とはしない。この程度のネタバレは大丈夫だろうと踏み込んだそいつを、ネタバレへの向き合い方を許さないだけだ。

 

と、こういう恨みを買うこともない、一番無難なのは一切ネタバレをしないことだが、ネタバレに踏み込んだほうが人生が楽しいと俺は思うので、おそるおそる、基準をもうけて堂々と、俺はネタバレをしていく。