空白雑記

暇つぶし

新自由主義で息苦しい人達が掲げる新全体主義について

plagmaticjam.hatenablog.com

 

新全体主義は主に「格差」や「弱者」を焦点に、新自由主義はこのように心がない、仕組みとして間違っている、という切り口のように思う。この辺は資本主義のアンチテーゼとして生まれた全体主義と似たようなもんだなと思うので新全体主義と呼ぶ。

 

上に貼ったブログでは、「新自由主義による競争社会で脱落する弱者の地獄」が焦点なわけだが、俺は彼らが脱落する理由は競争社会にあるとは思うのだが、競争対象は人間に限らないと思う。

 

人間は一つ前の記事でも書いたように、かなりランダムなパラメータを持って生まれる。信長の野望に例えると、ほとんどのモブはすべてのパラメータが30前後だ。時々突然変異種として、パラメータの1つが90だったり、平均値が70みたいな化け物も生まれる。

 

この、パラメータが30前後のモブの役目は、信長の野望だと足軽なんだと思う。火計コマンドで焼き払った20000という数字は、モブの数だろう。

 

能力の低い人間の、社会における価値は低い。能力の低い人間に出来る仕事は少ないし、その質も低い。ここまでは別に昔から変わっていない。

 

そう、たしかに昔はそういう人間にも足軽としての価値はあったし、農奴としての価値もあった。トラクターもコンバインもなく、開拓がすべて人力だった時代、指示を聞いて動く労働力には最低限の価値があったのだろう。

 

今、単純な労働の需要はかなり機械や仕組みに持っていかれてしまった。もちろん今でも、ヤマザキパン工場ではせっせと働いてる人がいる。だが、最低限マシな、つまみ食いをしたりしないし、サボったりしないし、ミスをしないし、ある程度効率のいい人間が求められる。そのくらいでないと、人間を雇うより、設備に投資したほうがマシになってしまった。

 

結局、新自由主義によって、というよりは、機械化や効率化によって、需要のボーダーが上がってしまった。昔なら、やる気のない能力の低い人間にも、とりあえずクワをもたせれば価値があったが、今はそんなやつにクワを持たせてあれこれ面倒をみてやるより、トラクターを購入したほうが効率が良くなってしまった。

 

逆に言うと、昔は一番質が求められる頭脳労働といっても、冠位十二階を制定したり日本書紀を編纂する程度だったが、今や世界に働きかけることが一個人にさえ可能になった。これも機械化と効率化によって。

 

主義主張によって弱者や格差が生まれたのではなく、機械化と効率化によって、弱者の居場所がなくなり、格差が生まれたのだろう。つまり、新全体主義者が非難すべきは、貨幣制度や産業革命やIT革命だ。資本主義や新自由主義は、それらの結果社会が向かった方向を追認したに過ぎない。

 

適当なボッタクリ小売店しか営めないような人達は、Amazonとコンビニによって排除された。なら、それが嫌なら皆でクワを持ってコルホーズを耕すしかない。

 

新全体主義が言いたいことは、昔はそんなに適当でも皆暮らせたし、大黒柱の父ちゃんに威厳があったというようなことなんだろう。何故これだけ便利さや技術の革新が生まれたのに皆ブラック企業でヘトヘトになるまで働かされるのか?おかしいじゃないかということなのかな?

 

それは、全体の質をあげるために全体に負荷がかかってる状態だからだろう。昔のように、インターネットもなく、スマホもなく、電話といえば交換手がつないでくれる電気糸電話。Amazonの即日配達も無く、郵便宅配便は3日遅れが当たり前。家電の技術開発もなく、冷蔵庫といえば氷屋さんで買った氷を入れておく簡易氷室のようなもの。それでいいなら、昔のような適当な働きぶりで十分だろう。

 

昔の不便な暮らしは100労働ポイントで維持できた。今の便利な暮らしは1000労働ポイントが要る。その上、一定以上のレベルの人間しか労働力にならない。だから一人あたりの負荷がきつくなる。それだけのことだ。

 

だから、弱者がどうとか綺麗事を言うより、さらなる技術革新をして、900労働ポイントを機械だけで生み出せるようにしたいと俺は思う。その時は多分、ほとんどの人間は配給されるものだけで生活をして、上層部だけが労働を担い、家具付きマンションに住むだろう。詳しくはソイレント・グリーンを見ろ。