植松容疑者の死刑に反対しないといけないのか?
植松は死刑判決を受けることで「この世には殺されるべき人間とそうでない人間がいる」という自らの主張を完成させた観がある。彼の思想を否定したいのなら、死刑制度に反対しなければならないだろう
— 古川 (@furukawa1917) 2020年3月18日
植松に勝つには、植松の死刑に対し真剣に反対していくしかないが、大量殺戮者であっても命には価値がある、と果たして本当に言えるのか。「障害者の命には価値があるが、植松は死刑になって当然」とするなら、それは単に植松とは違うラインを引いただけになる。
— 小山晃弘(平穏) (@akihiro_koyama) 2020年3月17日
「植松に勝つ」ってなんだ?いつ勝ち負けの話になったの?いつ植松と勝負が始まったの???自己理論ぶっぱして、「現時点では人と定義され殺人の罪に問われる障害者を大量殺人し」、刑法を犯した犯罪者が死刑になる、それだけの単純明快な話だろ。勝負?植松と誰の勝負だよ?
彼の主張がどういうものかと、法律に則り裁判が行われ刑が執行されるのは全く別の話だろう。彼の主張について議論することと、死刑に反対することは全く関係ない。
「植松の投げかけた勝負に勝つために、命にはかけがえのない価値があるという議論をしよう」って言う人、要するに自分の命の価値が底の方にあるという自覚があり、しかも自立して生きられず支援が欲しいか、またはそうなる不安があって、議論をして自分の地位を向上させないと自分は切り捨てられるという危機感があるだけでは。
それでいて、「法律」と「主張や思想」を混同する程度に感情的で知能が足りないのだから、とても革命家や運動家にむいてると思いますよ。悪い意味で。
そもそも植松の死刑にではなく、反対するなら死刑制度そのものに反対しろよ。生きる価値がないとされた障害者が殺されたと言う事件に感情移入しすぎて脳みそバグってないか?
— サブカルカオマンガイ (@kadath_bot) 2020年3月19日
社会的な弱者(いわゆる底辺)がネットで承認欲求満たしちゃうと、時々自分の認知(自分が底辺)にひっぱられて感情が盛り上がった時、無茶苦茶な事言うの面白いな。