空白雑記

暇つぶし

平等、自由、インターネット。

現在、教育現場で体罰は禁止されているものだと認識している。といっても俺は子供が居ないので詳しくはないが。

 

体罰は必要かどうか、でいうと全体でいうと必要だと思う。ただし、当然度を越した体罰を行ったものは罰するべきであるし、それは禁止しないといけない。しかし、身をもってしつけないと直らないサルのようなガキは居るのだ。

 

インターネットによって民衆の視野は、それ以前には考えられないほどの広さを得た。歴史上のどんな王でさえも、世界中の事を瞬時に見て取れることなどできなかったのだから。

 

王、といえば今度再販されるFateというエロゲのなかで、アーサー王のこんな話がある。

 

アーサー王は国王として全体を見て、全体のために必要最低限の犠牲で済ませようとしていた。小さな村は必要な犠牲として切り捨て、外敵と万全に戦い勝利し、国を守った。しかし部下は、民は言う。王は小さな村を見捨ててしまう。下々の者のことなど考えていない。王は人の心がわからない。

 

アーサー王は全体を見て必要なことをしたわけだが、ではこの民衆は、アーサー王と同じ視野を与えられたならば、王と同じ正しい判断ができただろうか?王としての意識をもって考えなければ、そうはならない。民衆は小さい村がかわいそうと喚いただろう。外敵と武力以外で話し合うべきだと喚いただろう。なぜ防衛しないとならないのか?征服されてもかまわないと喚いただろう。

 

インターネットで民衆の「視野」は神のように広がった。だが「意識」が広がっていないのだ。王としての責務を背負い、国の行く末を思い、判断するという器がないのに、インターネットという広い視野で喚き散らす。王はどのようにして王としての意識を手に入れるか。それは王になるほどの才能と、王になるまでの経験によって培われる。古来、インターネット以前は、王の視野は王にならないと得られなかった。民衆のレベルの意識には、民衆の視野しかなかった。だから、視野と意識はかみあっていたのだ。

 

インターネットと民主主義の相性は最悪だ。ほんとうの意味での衆愚政治となる。体罰は間違った使い方をしなければ必要だと思う人がいても体罰は無くなる。表現の自由は大事だと思う人がいても表現は規制される。

 

 

そもそも、我々人類は、教育と記録をもって進化してきた猿だ。我々の性能自体は、有史以来ほぼ変わっていない。それは古代の名著を読めばわかる。現代人は、古代ローマ人と性能的には違わない。

 

子供は、いや人はみな楽な方を選びたくなる。3日に1回筋トレすることはしんどい。サボって寝ているほうが楽だ。しかし、筋トレしないと腹はぶくぶくと太っていく。筋トレを頑張れば、体つきはかっこよくなる。当たり前のことだ。

 

強い意志を持ったものは、自ら苦難の選択肢を選べる。そうでない子供も、インターネットで視野が拡大する前は、「かーちゃんの奴隷じゃねーつうの」と不平をいいつつも仕事をしこまれ、一人前になり、結婚し、子供をもうけて暮らした。生まれ育った町から出なかった場合、「せいぜい100人くらいしか接点のない視野」で生きているから、その中から選ぶということができた。

 

年収1000万の男じゃないと、と最初に言い出したのは、年収1000万の男達に求愛されていた、ちゃんと視野の中に年収1000万の男がいる女だったろう。インターネットで視野が広がった結果、「年収1000万の男と接点がない」のに「インターネットの視野」をもって、「年収1000万の男と結婚したい」という女が出現した。視野と意識のブレが非婚社会を招いていると思う。視野が広がり、相応の相手と結婚したくなくなったのだ。

 

がんばって何かを成し遂げて、称賛されるよう努力せずとも、インターネットにいけばおちんぽ騎士団を筆頭に安い称賛を投げかけてくれる。現実での筋トレから逃げた底辺同士は、ネットでだけ、身内にだけとても優しい存在になる。絶対にお互いに否定することはなく、常にどんなにつまらないことでも全力で褒め合う。なぜか?そうでもしてないと死んでしまうのだろう。インスタ映えを頑張ることさえもできない、一番最底辺の承認欲求相互依存システムがそこにある。

 

本来は頑張らないと賞賛などされるはずがない。インターネット以前はそういう視野だった。教育があり、一人前になれないやつは半人前だとカス扱いされた。だからみんな必死に頑張っていた。少なくとも今よりは。カス扱いされていた、メスを得られない者たちに平等という思想とインターネットが与えられた結果、ネオルサンチマンとしておちんぽ騎士が誕生したという話を昔した。彼らを含む、インターネットでうごめくネオルサンチマンとは、「インターネットの視野」を持ち、「それに見合った強い意志」を持たず、「一番今の自分にぬるい選択肢」に逃げ続ける者たちだ。

 

君たちはレールのうえをあるかなくてもいい。自由だ。勉強をがんばったり、何かに打ち込んだりすると道はどんどん広がる。辛くても、課題やバットの素振りをやらないと、道がひらけないことがほとんどだが、”何もしない自由”も、”人生が詰むまで好きなことをする”自由も今はある。昔はそんなにクズ一直線の自由は、なかなか選べない視野しか与えられなかったが、今はインターネットがあるからね。

 

インターネットのおかげで無限の選択肢がある!それは相応の意識がないと適切には使いこなせない。甘ったるく、人生を浪費し、詰んだときに誰も責任を持ってくれない、罠のような選択肢だらけだ。

 

ネオルサンチマンの一人が子供部屋おじさんとなり、人生が完全に詰んで、通り魔になったり、親子で殺し合ったりした瞬間、ネオルサンチマンは一斉にこの元同類を叩き始める。なぜなら、それが自分たちネオルサンチマンの未来だと認めるわけにはいかないからだ。底辺の同類からも落伍した、その存在が、彼らの自意識を揺るがす最大の脅威なのだ。無条件にお互い傷をなめ合う彼らは、しかし、この時には一番手厳しい。それが滑稽だ。

 

 

一連の事件の盛り上がりをみてそう思った。